我がXMAXは斯く走れり!

XMAXのカスタムやツーリングを記事にしています。

愛用中のXMAXのカスタムや整備及びツーリングをテーマとしています。

浜坂地えび食べくらべと余部橋梁ツーリング

みなさま、いかがお過ごしでしょうか?


当方、久しぶりにまともなツーリングに出かけましたので、記事にさせていただきます。


きっかけは、梅雨入りまえにまともなツールングを行うということでしたが、くいだおれライダーさんが、関西の某TV局の番組で見られたという事で浜坂を推奨していただきました。
浜坂で「浜坂地えび食べくらべ」なるイベントが行われているとの事で、自称「えびマニア」の私にとってはベストマッチなイベントですので行ってみることにしました。






このイベントは、浜坂の観光協会が企画して実施されており、浜坂で水揚げされた数種の海老を使った料理を試す企画となっています。
対象のお店は浜坂の市街と湯村温泉にも設定されていますので、宿泊を絡めた日程にも使えると思います。
湯村温泉は、夢千代日記の舞台で有名な温泉地です。


さて、浜坂に行く途中の村岡町のニューおじろスキー場の入り口付近に、自動販売機小屋「コインスナックふじ」があります。
ここには、昔なつかしい自動販売機が現役で活躍しています。

 

うどんそばの自動販売機とカップヌードルの自動販売機です。
特にうどんそばの自動販売機は、40年位前から見かけ始めて今では日本で数台しか動いてないのではないでしょうか・・・・
カップヌードルもこのタイプはほとんど見なくなりましたね。
昭和のよき時代の自販機です。
広島ナンバーの自動車で家族連れがわざわざ買いにこられてました。


あとで、検索してみましたが結構話題になっているようでした。


兵庫県香美町村岡。幻の自販機を求めて「コインスナックふじ」へ、うどん自販機・パン・菓子自販機を調査に出動! | 横尾さん!僕、泳いでますか?


「コインスナックふじ」うどん自販機もパン&あんぱん自販機も気になる…。 | バイクでどっかいこ


コインスナックふじ 兵庫県香美町


この後、浜坂の目的のお店「みさきや」さんに到着です。

私のオーダーしたにぎりのセットです。

くいだおれライダーさんがオーダーしたバラ寿司のセットです。


どちらもボリューム満点で、おなかがいっぱいになります。


えびは種類によって食感もちがうので楽しめますね。
海老入りの出し巻もおいしかったです。



まだ、しばらくは実施されているようなので、機会があれば行ってみてください。


さて、おなかチャージも完了しましたので、ここから余部に向かいます。
余部の橋梁は現在架け替えされておりますが、この新しい橋梁を見学したかったので、私のほうからリクエストして訪問させていただきました。


うーん現在も立派な鉄道橋ですね。

このように、旧橋梁を一部保存しています。

バイク置き場に橋げたが展示されていました。

展示館などもあります。


さて、この餘部鉄橋についてです。
旧橋梁は1909年(明治42年)12月16日着工、1912年(明治45年)1月13日に完成し、同年3月1日に開通した。
全長310.59 m、下を流れる長谷川の河床からレール面までの高さ 41.45 m, 総工費331,536円。11基の橋脚、23連の橋桁を持つ鋼製トレッスル橋である。
23連となるのは、各橋脚上に30フィート桁、各橋脚間に60フィート桁がそれぞれ架設されているためである。
土木学会による技術評価では近代土木遺産のAランクに指定されていた。


その独特な構造と鮮やかな朱色がもたらす風景は、鉄道ファンのみならず、山陰地方を訪れる観光客にも人気があった。
その一方、直近の地元住民は多くの落下物や騒音に悩まされてきた事例もあり、旧橋梁による負の一面も存在していた。


2010年(平成22年)7月16日午後9時50分頃「はまかぜ」5号の通過をもって営業運行を終了し、同日深夜に行なわれた同列車上り返却回送をもって車両運用をすべて終了した。
翌7月17日から区間運休し、旧橋梁の解体撤去作業が開始され、新旧切替工事が8月11日まで行われ、2010年8月12日から新橋梁の供用が始まった。
鉄道用鉄橋の耐用年数は、減価償却資産の耐用年数等に関する省令によれば「構築物 | 鉄道業用又は軌道業用のもの | 橋りよう | 鉄骨造のもの | 四〇 年(40年)」 とされているが、旧橋梁はそれを上回って長期間耐用する結果を残した。
鉄橋には特に厳しい地形や環境であったことから、地道な保守作業や適切な維持管理が継続されたこと、鉄橋構成各部位の精度が高く建設当時から晩年に至るまで狂いが生じていなかったこと、財政的負担などの事情もあり、結果的に完成から98年という長期にわたる運用実績を残した。
完成当時は東洋一のトレッスル橋と謳われていたが、実際にはミャンマー北東部で1901年に建設された鋼材トレッスル橋ゴッティ鉄橋 全長689m、高さ(最高地点)102m)が既に存在していた。
しかし、日本国内では運用終了時まで最長のトレッスル橋であった。


一部橋脚・橋桁は保存され、展望台に整備されて活用されている。解体撤去で発生した鋼材は、歴史ある貴重な研究材料として、関西地方を中心とした数校の大学や鉄道総合技術研究所に提供され、金属や錆などの研究用途に利用された。
また地元からの「餘部駅に余部鉄橋の記念になるものが欲しい」との要望に応えたJR西日本により、同駅のホームに元橋脚の一部鋼材を使用したベンチが置かれている。
wikiより


余部鉄橋列車転落事故について
1986年(昭和61年)12月28日13時25分頃、香住駅より浜坂駅へ回送中の客車列車「みやび」7両の計8両編成)が日本海からの最大風速約 33 m/s の突風にあおられ、客車の全車両が台車の一部を残して、橋梁中央部付近より転落した。
転落した客車は橋梁の真下にあった水産加工工場と民家を直撃し、工場が全壊、民家が半壊した。
回送列車であったため乗客はいなかったが、工場の従業員だった主婦5名と列車に乗務中の車掌1名の計6名が死亡、客車内にいた日本食堂の車内販売員3名と工場の従業員3名の計6名が重傷を負った。
なお、重量のある機関車が転落を免れたことと、民家の住民が留守だったことで、機関士と民家の住民は無事だった。
しかし事故後、機関士の上司は責任を感じて自殺した。


この橋梁からの列車の転落は、橋の完成以来初めての惨事だった。
国鉄の記録では、事故の時点で風による脱線は全国で16件あり、そのうち鉄橋からの転落は3件あったが、鉄橋からの転落で死傷者が発生したのは、1899年(明治32年)10月7日に日本鉄道(現在の東北本線)矢板駅 - 野崎駅間箒川橋梁からの客車の転落で20人が死亡45人が負傷した箒川鉄橋列車転落事故以来87年ぶりのことであった。
風速 25 m/s 以上を示す警報装置が事前に2回作動していたが、1回目の警報では指令室が香住駅に問い合わせたところ、風速 20 m/s 前後で異常なしと報告を受けたため、その時間帯に列車がなかったこともあり様子を見ることにした。
2回目の警報が作動した際には、列車に停止を指示する特殊信号機を作動させてももう列車を止めるためには間に合わないという理由で、列車を停止させなかった。
こうした理由により、強風の吹く鉄橋に列車が進入する結果となった。


wikiより


在りしの旧橋梁


このように、悲惨な事故が発生したことや、老朽化の影響でかけ返されたようです。
当時の土木技術を結集して建設された旧橋梁は、およそ100年間も使われ続けたことを考えると、この頃から日本人の気質が垣間見えるように思えます。


では、またの記事でお会いしましょう。

×

非ログインユーザーとして返信する